お勉強

すごく遅くなりましたが,あけましておめでとうございます。
たーざんです。
最近はサークルから少し身を引いて,一般人の環境リスク認知についての研究に励んでいます。どうせ何か1つ論文を書かなければならないのだから,やりたいことについてやるべきだと思ったのです。
さて,環境リスク認知とは一体なんのことでしょうか。まず「リスク認知」について。わかるひとにはわかる簡潔な説明としては,教養のオムニバス授業「現代社会とリスク」の内容そのまんまのことをやろうとしています。食品問題・自然災害・投資リスクなど,不確定で危なそうな事象は全てリスク学の対象になっています。環境リスクとは,その名の通り環境問題などについてのリスクのことです。人々が環境問題に関する情報をどのように受け止めるかを研究するのが「環境リスク認知」です。ほかのリスクとの大きな違いは「リスクを実感できない」ことでしょうか。地域単位の自然災害などは,何も工夫をしなくても「何とかしなくちゃ」とほとんどの人が考えていたので,「〜すればいい。他の人もみんなやってますよ」と伝えるだけで済んでいました(これはこれで問題ですが)。しかし,環境問題は問題意識を持ちにくいだけでなく「“どういう行動をとるべき”という正解すらない」という課題があります。
この中でも,私は「リスク・コミュニケーション」という領域にアプローチするつもりでいます。リスクコミュニケーションとは,個人・集団・行政などの間における,リスクに関する意見の「相互作用」のことです。つまり,環境問題のような複雑な問題を一般の人がどのように解釈するのかを研究したうえで,適切な情報交換を行う方法を検討する分野であります。
ここまで説明すると,「マスコミにリスクを伝えてもらえばいいじゃないか」と思う人がいるかもしれません。ですが,そう簡単な問題ではないのです。
例えば,一般にマスメディアというのは人の認知バイアスを拡大する形で情報伝達を行います。そんなに怖くない問題をさも恐ろしそうに取り上げたり,珍しい問題を優先して取り上げたり,政策問題をある政治家を軸にしたストーリーに仕立て上げたりなどするので,「正確さ」という観点ではあてにならない場合が多いのです。飛行機に乗るより自動車に乗るほうが死ぬ確率はずっと高いのは統計的に明らかなのに,何となく飛行機のほうが怖い感じがしませんか? 「国会中継を見たら政治に対する印象が変わった」という話を聞いたことはありませんか? このような状況下では,地球温暖化という複雑な問題が正確に伝えられるとは思えません。
念のために言っておきますが,これはマスメディアが悪いというわけではありません。視聴者が悪いというわけでもありません。マスメディアは視聴者のニーズに沿った伝達手法を採用しているだけであり,その視聴者のニーズというのは,先ほど述べたようにどの文化にも存在する認知バイアスに関連したものがほとんどです。ある意味でマスメディアの報道の偏りは「市場の失敗」と同質のものと言えるでしょう。
もちろん,以前に比べればインターネットの普及によって,報道の明らかな間違いにはすかさずツッコミが入るようになってはきています。しかし,そのツッコミをみんながみんな共有できる水準には達していませんので,正確な情報を手にするには,ある程度の予備知識や時間的余裕,能動的な情報収集態度が必要であることに変わりはないのです。そして,これらの条件を満たす人は正直言ってそれほど多くありません。
その結果はどうでしょう。今の日本では環境問題≒地球温暖化と思い込みがちであるにも関わらず,その温暖化問題に対する認識すら正確ではありません。未だにオゾン層破壊とヒートアイランド地球温暖化の違いがわからない人だってかなりいます(2008年の調査。松本安生『地球温暖化のリスク認知に関する研究』より)。
ちなみに,この勘違いは能動的に最新情報を仕入れる意思がない場合に発生しやすい「ヒューリスティック処理」の1例です。今回の場合は,人はある対象について初めて知った情報を最も重要視するという処理が働いていると考えられます。例えば,携帯電話で写真を撮ることを「写メ(す)る」と表現する人が結構いると思います。厳密に考えたら,写メールというのはどっかの会社の登録商標なのですべての携帯電話に一般化できないはずですし,そもそも写メールは「写真をメールで送る」ことを指しますので,写真を撮るだけで「写メる」というのは変です。しかしこれは,ある時期に「写メール」という題目で「携帯で写真を撮ってメールで送る」という「一連のプロセス」の映像がテレビCMで放映されたことを知っていれば容易に説明ができます。このCMを見た人は「携帯で写真を撮って」の部分まで写メールの定義に含めて覚えてしまったのです。チョコボールによく似たお菓子を「チョコボールのパチモン」と呼ぶのと同じようなものです。人の行動範囲が狭かった時代はこのヒューリスティック処理が有効に働いていましたが,現代では無駄な勘違いを生むだけであります。人の認知傾向というのは結局のところ「本能」ですから,正確な知識を得ようとする意識がなければ,明らかにおかしな概念でさえ違和感を覚えずに納得してしまうのです。実は,環境問題が報道されるようになった初期では,オゾン層の破壊やヒートアイランド現象,地球温暖化の違いを報道側がよく把握していませんでした。この頃の報道の知識を引きずっている人が2008年時点でもいたわけですね。
このような意味で,正確な知識をすべての人に与えるのは不可能といえます。環境問題の報道を初期から見ているような人でさえ,10年以上も「ヒートアイランド地球温暖化は違う」という基本的な知識でさえ理解できないことがあるのですから。一度間違った知識を流してしまうと,二度と正常な流れには戻せないということです。と聞いて違和感を持たなかった人はかなりまずいです。これは通常の対人関係において「誤解を解くことは不可能だ」と言っているのと同義だからです。つまり,専門家が一般人を「啓発すべき対象」という別次元の存在ではなく,「対等な存在」と認識すれば簡単に解決できるはずなのです。一方的な啓発の限界はそこにあります。
そもそも,専門家レベルの知識があるからと言って適切な行動がとれるわけではないことが既にわかっていたりします。詳細は忘れましたが。とりあえず,温暖化懐疑論というのは素人には思いつきようがない発想ということです。無駄に知識を仕入れると反抗心が芽生えるといった感じでしょうか。
とにかく,専門家が非専門家を見下しがちなことと,それっぽい意見が出たときにとりあえず鵜呑みにしてしまう非専門家の態度が問題なのです。今の日本は「人格的に素晴らしい独裁者がいればどんな問題でも解決するだろう」と言われています。これは文化的な影響が強いので,よいとか悪いとかそう簡単に断言はできません。ただ洗脳と環境意識は別物ですから,うまく回避するべきだと思います。
教科書的な知識の伝達にとらわれすぎて,専門家とそれ以外の人たちの相互理解が進んでいないという実情をどうにかするのがリスクコミュニケーションの世界です。大学生が地域行事に参加すると「あの○○大生が」と囁かれるような,そんな妙な距離感を解消しないといけないわけですね。
とにかく,リスクコミュニケーションというのが,ただ単にリスクを伝えれば済むわけではないということを知ってもらえると幸いです。
これまでの話を無理やりまとめると,私が今研究しているのは,「こんなに事実を伝えているのに,みんな意識を入れ替えてくれない」と嘆いている活動家に「当たり前だろ」とツッコミを入れる学問です。自分の専門,自分が属しているフィールドが自分にとって大事なのは当たり前ですが,そんなの他人にとっては知ったこっちゃありません。